岩橋武夫氏との出逢い
それは1940年代、第二次世界大戦の最中でした。ある日、シャープの創業者早川徳次のもとに、日本ライトハウス創設者の岩橋武夫氏から、ある依頼の手紙がよせられました。徳次は、岩橋武夫氏が1937(昭和12)年に盲聾の教育者ヘレンケラー女史を初めて日本に呼び、全国での講演会を実施したという新聞記事を読んだことがありました。しかし、岩橋武夫氏とはまったく面識がありませんでした。
それでも徳次は岩橋武夫氏と会うまでもなく、二つ返事でその依頼を受けることにしたのです。その依頼とは「戦争で目を失った失明軍人に対して電気についての講義と実地訓練をして欲しい」ということだったのです。
そして徳次は、心を込めて熱の入った講演と講習指導を実施しました。講習に参加した失明軍人達は真剣に耳を澄まして話を聞き、納得いくまで実習に打ち込んだと言われています。目を失った者たちは生きていくための光をこの講習に求めていたからです。
そのとき徳次は、幼い時に奉公先に手を引いてくれた盲目の老婆の手のぬくもりを思い出していました。つらい日々から救いだしてもらい人生を拓くきっかけをつくってくれたこの老婆に一生かけて恩返しをしようと心に決めていました。しかし老婆は大震災で行方知らずとなり、恩返しを果せず途方に暮れていました。そこで「老婆から受けた恩を世の中の盲人へ返していこう」と強い想いがこみ上げていたのです。
早川電機分工場の開設
後日また岩橋武夫氏が徳次を訪ねてきました。そして今度は「訓練をしてきた失明軍人のためにライトハウス内に実際の職場を作りたい。そこで器具、設備の提供をお願いしたい。加えて技術指導もして欲しい」と要請したのです。これにも徳次は快諾しました。
そして、1944(昭和19)年、その失明者たちを雇い入れ、彼らが作業する場所を早川電機工業(現在のシャープ)の工場として開設したのです。これを「早川電機分工場」と名付けました。盲人だけで金属プレス加工を行う工場です。日本で初めての試みだったのではないでしょうか。失明者たちは、何度も指を負傷しながらも必死になって技術を修得し、懸命に作業に打ち込みました。
これがシャープの障がい者雇用のはじまりです。そして、シャープ特選工業へとつながっていきます。
特選金属工場の創立
1950(昭和25)年8月29日、失明者たちが働くプレス加工工場「早川電機分工場」は早川電機工業から完全に独立し、合資会社「特選金属工場」(現シャープ特選工業株式会社)として新たに創立しました。
早川徳次には、「何かを施す慈善より、障がい者自身が仕事をして自助自立出来る環境を作ることが福祉に繋がる」という強い信念がありました。
徳次は、まだ幼い時に盲目の老婆に手を引かれて丁稚奉公に入った。そして、ここで仕事をする機会を得たことで、後の人生を拓き事業を築くことができました。その自らの経験に基づく信念から失明者たちが独立し自立する道を引いたのです。
当時は、第二次世界大戦が1945(昭和20)年に終戦し、戦後の不況が電機業界にも波及していました。そんな中、徳次は、早川電機分工場で働く失明者たちに退職金を渡し、その退職金を出資して会社を設立するように促したのです。工場や設備機械などは早川電機工業が支援をしました。
設立にあたり、早川徳次は独立する者たちに「盲人の新たな職業開拓はこれからだ。皆さんは盲人の中から特に選ばれた“特選者”である。その誇りを持って働きなさい」と励ましました。そして、この新会社の社名に「特選」と付けたのです。
そうして、失明者7名と技術指導のための健常者1名の計8名による会社経営、事業活動がはじまりました。
合資会社「特選金属工場」の初代代表は、山本卯吉という全盲者でした。
山本卯吉は、のちに当時をふり返りこう語っています。
「わたしが会社の代表になった時、早川さんから、『なんとしても会社を赤字にしないように経営しなさい。そして万一不況になっても経営者たるものは、会社の都合で社員に辞めてくれというようなことは絶対にいうべきじゃないんだ。』と言われました。それは早川さんの信条ですから、わたしもそれだけは、しっかり守ろうとしてきました。」
山本卯吉をはじめ盲目の経営者たちにとって、独立してこの会社を営むことは決して容易いことではありませんでした。
しかし、この盲目の経営者たちは、早川創業者の信条を守り、そして特選者としての誇りを持って、自分たちだけで懸命に事業を経営していく道を歩みはじめました。
初代代表 山本卯吉(やまもと うきち)
陸軍軍人だった1941(昭和16)年、中国で手投げ弾が爆発して両目を失明。
故郷の大阪に戻った際、視覚障がい者の支援団体創設者の岩橋武夫氏を通じて早川創業者に出会いました。のちに早川電機工業に入社し独立を経て「特選金属工場」の代表を1950(昭和25)年~1982(昭和57)年32年間務めました。2005(平成17)年没。
障がい者のモデル工場
特選金属工場が創立した1950(昭和25)年は、身体障害者福祉法が制定された年でもあり、社会的に障がい者の社会参加が歩み始めた時代でした。早川徳次は、「盲人でも企業を経営する能力がある。この会社を大きくして一人でも多くの障がい者を雇用し、モデル工場として発展させよう」と特選金属工場の従業員を励ましました。
その言葉を真摯に受け止めて、初代代表の山本卯吉をはじめ従業員一人ひとりが持てる能力を精一杯出して、日々精進を重ねると共に新たな挑戦を続けました。そうしてラジオの部品加工に加えて、新たに生産が始まった白黒テレビの部品小物の組み立て作業、さらに1957(昭和32)年には、カラーテレビ部品の組み立て作業も受注し事業規模を拡大していきました。あわせて、視覚障がい者のみならず肢体障がい者の雇用も開始し、さらに幅広く障がい者を雇用する工場として発展していきました。
こうした視覚障がい者自らが経営する特選金属工場の取り組みは世間に広く知られるようになりました。
1952(昭和27)年、当時、社会事業家として著名であった賀川豊彦氏が、世界的に富豪であり慈善活動家としても有名であったロックフェラー氏を伴って、特選金属工場の視察に来られました。
1954(昭和29)年に三笠宮殿下と高松宮殿下、同妃殿下が立て続けに特選金属工場を視察され、障がいがありながらも巧みにそして闊達に作業をしている者たちを見て励ましのお言葉を掛けて頂きました。従業員はそのお言葉に感激し、一層意欲を高めて仕事に打ち込みました。
特選金属工場の発展と並行して、障がい者が働く機会を得られるための社会的気運はさらに高まり、1960(昭和35)年7月には「身体障害者雇用促進法」が施行されました。当制度のもとで、特選金属工場は「適応訓練指定工場」となり、聴覚障がい者や肢体障がい者の職業訓練を開始し、障がい者が働くための道を拓いていきました。まさに障がい者のための「モデル工場」としての歩みを進めていったのです。
1963(昭和38)年に、社名を合資会社「早川特選金属工場」に変更しました。さらに、1966(昭和41)年には、当時の早川電機工業の敷地内(大阪市阿倍野区西田辺駅付近)にあった工場を、大阪市阿倍野区阪南町(現在の会社所在地)に移転して増床し、さらなる業容拡大に向けて取り組みました。
当時、代表の山本卯吉は、「従業員の障がい者と健常者の比率を50%ずつにする」という方針を定めました。これは障がい者と健常者が、分け隔てなく、それぞれの個性を理解し、支え合って、共に働くという「共生」の考えでもあり、その考え方は今のシャープ特選工業に引き継がれています。
親子だるま
不遇な幼少期に助けてもらった盲目の老婆井上さんへの報恩感謝の念から戦盲者の工場をつくった早川徳次、早川徳次の想いに応えて懸命に働き特選金属工場を立ち上げて業容を拡大してきた従業員たち、その早川徳次と従業員の間には強い絆があったことがうかがえるエピソードがあります。
会社が創立二十周年を迎えた1970(昭和45)年に、早川徳次が大阪市に寄贈した早川福祉会館(大阪市東住吉区)で、大阪府知事を来賓に迎え、早川特選金属工場「創立二十周年記念大会」を行いました。
その際、従業員たちは早川徳次に三つの気持ちを込めて、木彫りの「親子だるま」を贈りました。
一つ、早川徳次の深い理解と指導によって創立二十周年を迎えることができたことへの感謝
一つ、障がいがあっても工場で働くことによって立派に社会に参加し健常者と肩を並べて働くことができる喜び
一つ、記念大会を機に初心に返り、自助自立に向けて一層の努力をすることへの新たな誓い
この三つの想いの印として、親だるまに早川徳次の名を、子だるま一つ一つには当時在籍の身体障がいのある社員一人一人の氏名を彫り込みました。
障がい者の自立を願う早川徳次と、その想いに感謝と尊敬を抱く従業員の間には、まさしく親子のような信頼関係があったのです。