シャープ株式会社の障がい者雇用のはじまりは、第2次世界大戦終戦前の1944(昭和19)年に早川創業者がシャープ(当時:早川電機工業)に戦争で失明した軍人を雇用し、盲人用金属プレス加工ラインを設置したことからです。
その後1950(昭和25)年に、当金属プレス加工ラインを独立させ、現在のシャープ特選工業(当時:合資会社 特選金属工場)を設立しました。この早川創業者の取り組みは、画期的な試みであり、日本における障がい者雇用の先駆者となっています。
当時から早川創業者は、「障がい者自らが、自助自立をして働ける職場環境つくる」ということを使命としてこられました。
その考え方は70年近く経った今でも障がい者雇用の在り方として普遍的であり、当社に引き継がれています。そして、障がい者と健常者が共に働く職場作りの礎となっています。
その早川創業者の考え方、強い想いを表した文章が残されています。
それは、創業者 早川徳次が初代会長を務めた「大阪府身体障害者雇用促進協会(1949年発足/現:一般社団法人 大阪府雇用開発協会)発行のH.E.C創刊号(1950年・昭和25年発刊)に創刊の挨拶として掲載されたものです。
その内容を全文、下記にご紹介しますので、ぜひ、御一読ください。
創刊の挨拶
長い間の懸案であった、身体障害者雇用促進協議会の会報がいよいよ創刊されるに至ったことは、不肖会長の職に選ばれた身にとって、こんな嬉しいことはない。
この運動が軌道に乗り、更に本格的な段階に入る迄に払われた関係者各位の熱情に、まず深甚なる感謝を捧げたい。当会の名誉顧問として、欣然承諾を与えられた、赤間知事殿を始め、関係部課長の熱意と、或いは経済的援助に非常な同情を寄せられた府会の諸名士は申す迄もなく、多忙の中からひたすらこの事業の協力に砕心される職業安定課の方々、各安定所長、補導所長の御理解に対しては、常に感謝を新たにしている。
明日の社会を明朗化するために前進する、平和と愛情の運動が成功する為には、官民協力の唯一路あるのみと、益々痛感するところである。
誰も彼も、人間は幸福でありたい。幸福の限界が、よしその環境によって異なるとしても、喜怒哀楽の条件は、一つであろうと信じている。
働き得る喜び、自由なき怒り、健康を失った哀しみ、家庭団らんの楽しさ等、人間生活の根底を流れるせんせんたる波動こそ、幸不幸バロメーターである。
対座した青年に「あなたは幸福ですか?」と問うて見る。「ハイ元気で働いています。」と、すぐ答えが反応してきたら、こちらもどんなに幸せであろう。油染みた手の甲、真黒なほう髪、几帳面に揃えた膝頭もすり切れているが、なんとその顔は希望に輝いていることか。勤労の喜びが、職持つ安定感が、脈々として溢れるばかりである。
私は思う。誰も彼も幸せであるためには、誰も彼も適職を持つということである。
だがここに、身も心も健康ではあるが、局部的障害の為に職を持つことの出来ない一群の人々がある。この人達に、何の罪がある訳はなく、能力に常人との差異がある為でもない、ただ、世間の大部分から、差異があると信じられ誤解を受けている、気の毒な人々である。
なんの罪もないこの人達だけが、適業を持つ自由を喪失して、幸福の世界から置き去りにされて好い筈がない。
我々企業者の仲間にも、そう信じている多くの人々がある。少しの注意と断を以ってすれば、ここに潜在する優秀なる労働力が直ちに発見出来る。それは企業者としても嬉しい発見であり、事業に志す者の社会的責任でもある。
私が、これに気付く機会を得、僅かながらも、体験を重ね得たことについては、神々に深く感謝している。それは、すなわち与えられた自分の天職の中から、相互救済の両立を、工夫出来たからである。
勿論、これ等のことを受け入れるには、多少の勇気と工夫が入用である。
私の工場では、最初八人の戦盲者を雇用する機会を持った。プレス作業である。
全然視界の絶えたこれ等の人々を、仕事と環境に慣れさせるために、私は、技術者と相談して色々の設備を改造した。
まず、動力の一切を取り去り、足踏み又は手動ポンスに変え、檜造りの立派な仕事台を造り、これを固定して椅子や引き出しに細心の注意を払った。何よりも不測な怪我をしない為に安全装置を取付けた。他の従業員と速歩の喰い違いを避けるため、専用道路を作ったり、あらゆるものに点字を応用してこの人達の利便に供し、或いは精密な部品の感度を検査するための特別な音響測定器を考案した。
神は二物を与えず、というが、人間が生きて行く上に必要な条件と、これを充足する反射感能は、常に一であるらしい。始めは私にも、一沫の不安が伴ったが、間もなくそれが杞憂であったことは証明された。この人達は異常な熱心さを以って、局部的不自由を補い新しい職業をたちまち自分達のものにした。むしろ能率は、常人を遥かに凌ぎ120%を超えてそれを維持しているものがあるという、不思議な現象を呈した。
無理に誇張されているのではないだろうか、と反問される方々のために、以下少し、御説明をしてみよう。
皆さんも御存知の様に、片手を失った方は、一方の片手が異常な発達を遂げて不自由を克服してくれる。失明された人にとっては、勝れた心眼が開け、指頭感覚が発達するのである。俗に「眼にも見えぬ仕事」と言われている細かいものを作る指頭作業においては、精神力の集結と、指頭の敏感な働きを必要とするため、開眼者よりも失明者の方が有利である。仕事以外に気が散らないともいえる。それに肉眼を補う皮膚の触覚が発達してくる。全盲の一人で私の工場の優秀労働者である、山本君は、入社当時は盲導犬を連れて歩いていたが、先年この愛犬を盗まれてしまい、全く途方に暮れてしまった。しかし彼は、長い間街を一人歩きした経験から、遂に先天的の失明者のように、杖一本で勇敢にどこへでも出て行く。皮膚感覚が発達してきたのである。曲がり角へ来ると風が方向を教えてくれる。勿論聴覚も正しく、騒音の中身を色別するのであろう。
人生50年、我々はとにかく、無頓着に過ごして来るために、山河の起伏を見ながらしかも足元の高低を知らない。だが、失明された人々にとっては、一日の行程がことごとく注意の対象である。此処にも研究すべき一事がある。
盲唖聾の三重苦を征服した、ヘレン・ケラー女史も、偉大であったが、私の側近に居る人々の中にも、失明と、片足大腿部切断の戦傷者や、片腕のない失明者が居る。
最近、私が雑役の仕事に雇った、西川君という人は、震災で、左腕を負傷切断しているが、残った一本の腕で想像出来ない様な力技をやる。薪を割り、鋸を使い、炭を焼き、全く何不自由なく裕に二人分の仕事をやっていく。
聾唖者の時山君は、倉庫の整理をやっているが、これまた、もっとも適応した能率を示し、文字通り黙々としてやっている、非常な力持ちである事も、雑役の西川君に匹敵する。
これ等の人々は、いずれも当社の寮内に居住していて、妻帯者である。収入も、平均ベースを遥かに上回って、まあどうやら、経済不安の除外にあると思っている。
この会の、副会長をやって居られる、大阪ダイヤモンドでも、沢山の聾唖者を使って居られるし、宮川製作所でも既に、この経験を積まれておられるが、いずれも、優秀なる労働力であることを証明されている。その他に、従来の会員は概ね経験を有しておられるのであるが、この運動を成功せしめるには、更に更に、沢山の共鳴者を得てあらゆる事業家の御理解を求めねばならない。
国立、都立、府県立の補導所も全国に数多くあり、先日来、私も東京杉並の補導所や堺旭ヶ丘、それに守口の補導所等を行脚して見学させて貰ったが、所員の火の様な情熱によって、幾百千の障害者達が不幸のどん底から起ち上がっている姿は嬉しい限りである。ただ国立においては予算の関係からか、施設の貧困には、いささか失望を禁じ得ない。国家の台所が反映したような、うすら寒い施設の中で、如何に神の如き所員の熱意をもってしても、果たして立派な補導が可能であるか、国立なるが故に、いわゆる申し訳的であってはならないと、しみじみ苦言を呈したいところである。
能力に差異がなくとも、一カ所でも不自由なところがある人々には、より明るさが必要である。
私のところの特選工場では(これも、失明工場という名称を廃止したのは差別感を与えないためである)天井から壁まで明色を用い作業場には花を活け、専用道路には、ささやかながら花壇を作っている。
失明者は、自分の組み立てたラジオを聴き、短歌を作り、駄句をひねって朗かである。能率の向上もこの精神状態において可能である。
既に常人が100%であれば、身体障害者は120%の能率を上げ得るよう指導すべきであり、「私の処ではこの様な特徴を補導した」というレッテルをはって、ここに一般企業者の魅力を誘い理解を深めるべきである。絶対に常人に劣らない、否それ以上の高能率を上げ得る可能性は充分にあるのだ。この点は、補導所を始め、各指導者の方に御願いしたい。
適性に対する受入設備が研究されれば、必ず不思議に近いこの状態は実現するということを、私は主張する。そして、「健康で五官に故障のない方でも、この時節に雇い難い…」と言うことは、まず間違った理論であることを、企業家の各位に呼びかけたい。
ことに労働問題の次第にむずかしい時代に、身体障害者雇用の問題は多くの示唆を提供するであろう。
この運動こそ、社会福祉と人類平和のために、国境を越えて掲げられる光明であると信じ、国民一人残らず名誉ある会員になられることを提唱して、御挨拶に代える。
1950年2月25日